名前を呼ぶ
着信音が通路に鳴り響いた。自分のポケットに手を当てるがバイブレーションは反応していない。
ちらりと視線を横に向ける。すぐ隣の外岡は眉を顰めて自分のスマートフォンを凝視していた。画面には「母」という文字と電話番号が表示されている。
神田の視線に気づいた外岡は余所行きの顔を作り直した。気怠げな雰囲気を中和するように微笑んでいる。
「ちょっとすみません」
「いいよ」
神田が手を振ると一度頭を下げた外岡がこちらに背中を向けた。そしてその数秒後。
――一斗。
女性の優しい声が聞こえた。盗み聞きするつもりはなくても無音の廊下には声がよく響くのだ。
「なに?」
温かみのある声に反して外岡は落ち着いていた。まるで寝起きで意識がはっきりしていないような脱力した声だった。
外岡と両親の仲は良好だ。だからこそのぶっきらぼうな対応なのだろう。こういう態度の違いを目の当たりにすると、自分は彼にとってまだまだ他人なのだと実感する。
冷たくされたいわけでもないし、肉親として扱ってほしいわけでもないのだが、疎外感のようなものを感じる。
「うん。うん。大丈夫、まだある。子供じゃあるまいしもういいって」
問いかける母親の言葉をなるべく聞かないようにしても、彼の後ろ姿は視界に入る。
肩幅に対して細い腰に手を当てて、指先は脇縫い線やポケットを行き来している。板のように平らな尻、そこから伸びる脚を退屈そうにぶらぶらさせていた。身振り手振りして話すタイプではないと思っていたのに意外だ。
いつもきっちりセットしているのに、昼寝でもしたのか後頭部の髪の毛がいくつか跳ねていることにもたった今気がついた。
(まだ子供じゃないか)
思っても口にはできないが、自然と頬が緩む。
「今訓練の途中だから。じゃ、来週」
相手の返事を聞く前に終話ボタンを押した外岡が神田を振り返る。何もなかったかのようにさっきと同じ距離に戻ってさっきと同じ表情を浮かべている。こうも露骨だと反応に困る。
「ども、お待たせしました」
「俺のことは気にしなくていいのに」
「いや、こっちが長話したくなかったんで。メシ食ってるか、宿題してるか、遅刻してないか、米はまだあるか。そんな電話がしょっちゅうかかってくるんスよ。いい加減にしてほしいんスけど、ちゃんと話するって約束したんで」
「そりゃ親御さんは心配するだろ。スカウト組や家を壊された奴ら以外で一人暮らしする高校生って少ないからな」
いつが最後のやりとりになるか分からないから親しい人との会話はささいなことでも大切にしたほうがいい。これは自戒である。
「はい。実家住まいか一人暮らしか選べるだけ贅沢って分かってます。でも、こんだけ回数が多いと疲れるんスよ。家を出るときより母さんとの会話が増えたもんなぁ」
スマートフォンをポケットに入れた外岡がふうと溜め息をつく。伏せられた睫毛の淡さに息を呑む。
「一斗」
「……はい?」
鳩が豆鉄砲を食ったように外岡は目を見開いている。神田自身も突拍子のない発声だと分かっていたので慌てて言葉を繋げた。
「いや、おまえのお母さんがそう言ってたなあって」
「自分の息子なんだから名前くらい普通に呼ぶでしょ」
「そしたら俺も呼びたくなった」
じわりと顔に熱がこもるのを感じる。自分でも幼稚な理由だと分かっていた。頭を掻く神田をにやついた外岡が見上げている。
「可愛いとこあるなぁ、忠臣さん」
赤子をあやすような甘い声で揶揄される。どうせならもっと違ったシチュエーションがいいのだが、そのとき彼はおそらく神田の名前を呼んでくれない。
浮ついた気持ちを静めて、意識して声を低くした。
「そういや、俺がののさんを名前呼びしてるの嫉妬したりしないのか?」
「全然。意識したこともなかったっス」
「そこまで断言されると寂しいな」
「二人とも旧弓場隊時代からの付き合いだし、何もやましいことはないって分かってるんで」
「信頼されてるって解釈しとく」
「はい。……って! もうこんな時間っスよ」
通路に備えつけられた時計を指差す。急がなくても作戦室には予定時間より早く着くと分かっている。
「なあ一斗」
「なんスか、神田さん」
その声にも動作にもさっきまでの甘さはない。
遠すぎず近すぎずのちょうどいい距離。いわゆる「仲のいい先輩と後輩」という枠に収まっていた。
そんな当然の事実が神田の胸に引っかき傷を作った。